ローマ大火 - Wikipedia: "チルコ・マッシモから起こった火災は市内のほとんどを焼き尽くし多くの被災者と死傷者を出した。ネロはこの火災に対して真剣に対処したが市民の間ではネロの命によって放火されたとの説が流れた。こうした風評に対してネロは当時の新興宗教であったキリスト教の信徒を放火犯として処刑した。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教の弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えたが、タキトゥスらローマの歴史家はローマ伝統の多神教を否定するキリスト教に対して嫌悪感を抱いており、ネロの弾圧そのものは非難しながらもその原因をキリスト教とその信徒に求めている。こうしたキリスト教徒への迫害にもかかわらず、ネロがローマ復興の際に広大な黄金宮殿(ドムス・アウレア)の建造を行なったため新宮殿の用地確保のために放火したという噂は消えることはなかった。"単なる失火だったのかも知れないのに、この手の「陰謀」説は、なぜかすぐ人に信じられてしまう。
何か事件が起こると犯人探しに躍起となるのは今も昔も変わらない。背景には人間社会というものはもともとは理性的でその性や善という思いこみがある。だからヘンなことは本来起こるはずはなく、とんでもないことが起こると、誰かの陰謀だとか、社会が悪いとか、誰それの政策ががおかしかったからこうなったとか、犯人捜しに躍起になる。
人間というものはもともと不完全で邪悪なものだ。そういう連中が集団で安全に暮らしていけることの方が、信じられないぐらいに幸せなことなのであるが、そういう風には人は考えない。経済だってそう。みんなが「継続的に」豊かになるという現象だって、別に神様がそう決めたわけでもない。歴史ではみんなが継続的に貧しくなっていく局面もあるのである。陰謀でもなんでもない。みんながより質素に、より合理的に、より長時間働けばいいだけのこと(俺だけは怠けて贅沢したいという連中がいるのが問題だ)。
「災難に逢うときには遭った方がいい」とは良寛の言。非合理的な制度を改革するいい機会だ(そういう非合理的なものを許容するだけの余裕がなくなるから)。「陰謀説」で舞い上がるより、よほどいい。
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